今から30年ほど前、私が中学生の時の話。
冬休みの課題に「税金について」という作文があった。
当時の私は文章を書くことに飢えていた。また、「美味しんぼ」に触発されて社会問題に関心をもっていたので、税金問題についての私の思いのたけをぶつけられる願ってもない機会が来たと、私は意気揚々とこの課題に挑んだ。
今の時代であれば、少子高齢化による社会保障費をまかなうためと称して度々行われる増税による「税金が高い!」が税金問題の焦点になるだろうが、当時は社会保障費の話は今後生じる問題として語られていた程度で、税金の額よりも「税金が無駄遣いされている」特に「無駄な公共事業」が槍玉にあげられていた。
私は税金問題のトレンドである「無駄な公共事業」を語るべく作文の作成にかかった。参考資料は「美味しんぼ」の「長良川河口堰」の話。この話で主人公の山岡士郎が河口堰(巨大な水門)の建設業者に対して、国は治水等のため等に長良川に河口堰を造るといっているが、「河口堰をあえて造る必要はなく、むしろ長良川の生態系を破壊するだけの行為であり、税金の無駄遣いであると、いくつかの研究データを引用しながら喝破する場面がある。この話を踏まえて「無駄な公共事業」についての論を展開し、国民から徴収した税金なのだから無駄・・・いやマイナスになるような事に使うのではなく、プラスになる事に使って欲しいと締めくくった。
我ながらよくできたと自画自賛。これくらいの政治批判を書ける中学生はそうそうおるまいから、入選するんじゃないかとワクワクしていた。
そして三月末の修了式。式の冒頭に「税の作文」の入選作の発表があった。
イヤー、来たなー。と一人ワクワクする私。
そして、入選作の発表。校長先生が入選者の名前を読み上げる。
・・・・・・。
(え? 私じゃないのか・・・。)
ガッカリする私。校長先生が続けて、
「では入選作をここで読み上げさせていただきます。」
ほう。どんな作文が入選したのか聞かせてもらおうじゃないかと聞き耳をたてる。私以上の税金の使われ方に対する批判をした文章とはいかほどのものか!
校長先生が読み始める、
「中国から沢山の財宝を持って日本へと帰ってくる遣唐使・・・。」
(ん? 遣唐使?)
のっけから不意をつかれた私。どういうことだ?
校長先生が読み進めていくと、遣唐使が中国から進んだ文物を日本に持ってきたことにより、日本は発展しいくことになったのだが、この遣唐使の派遣には当時の日本人の税が使われている。税を集めて使う事で日本は発展し今に繋がっていると税金の必要性について論じられていく。
先生が読み進めていくにつれ私の中に
(しまったー)
という思いと、政治批判を書いて悦に入っていた自分自身に対する恥ずかしさがこみあげてきた。そして、
(頼む! 一言でいいから現在の税金の無駄遣いについて触れてくれ!)
と願い出した。税金批判ナシの作文が入選したでは私の作文の方向性が全く見当違いであったとなってしまうからだ。
校長先生が入選作を読み終える。最後まで現在の税金に対する批判は一切なかった。
私は見ていたはずだ、聞いていたはずだ、この作文の主催が「税務署」であったことを。
これが高校入試の小論文であれば私が書いた税金の無駄遣いに関する政治批判は評価してもらえたかもしれない。だが、今回の作文の審査をするのは私が言うところの「無駄遣いされる税金」を徴収している税務署なのだ。
「美味しんぼ」のテンプレートとして、横暴な言動をとる人(何かの権威者であったり会社の社長であることが多い)がいる→主人公の山岡がその人と揉める→山岡がある意図に基づいた料理を、その人に提供する→山岡が意図を説明→その人が(素直に)反省するというのがある。私も正論(?)をもって喝破すれば税務署の人も「彼の言うとおりだ」となるものだと思っていたのかもしれない。だが、税務署が中学生の作文に望んでいるのは批判的な作文ではなく、素直に税金の必要性を論じる作文だ。そもそも「美味しんぼ」のテンプレートが痛快で何度も読みたくなるのは、現実世界では自らの非を素直に認める人はまずいないからだろう。
作文の入選を考えないのなら書きたいことを書けばいい。だが、入選をねらうのであれば、審査員が何を私に望んでいるのかを考えて書くという、およそ「中学生らしさ」からかけ離れた社会人のプレゼンに通じる思考をもって挑まなくてはならなかったのだ。
自分の「書きたい」欲求をおさえきれなかった当時の私には到底できることではなかったのだが。
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